学校で習った日本史の年表を思い出してください。
縄文 → 弥生 → 古墳 → 飛鳥 → 奈良 → 平安 → 鎌倉……
この流れ、実は本州・四国・九州だけの年表です。
同じ時間、北海道と沖縄では、まったく別の時計が動いていました。
3つの時計を並べてみる
| 時期の目安 | 本州・四国・九州 | 北海道 | 沖縄・南西諸島 |
|---|---|---|---|
| 〜紀元前3世紀ごろ | 縄文 | 縄文 | 貝塚時代(前期) |
| 紀元前3世紀ごろ〜 | 弥生 | 続縄文 | 貝塚時代が続く |
| 3〜7世紀 | 古墳 | 続縄文 → 擦文 沿岸部はオホーツク文化 | 貝塚時代が続く |
| 7〜8世紀 | 飛鳥・奈良 | 擦文 | 貝塚時代が続く |
| 9〜12世紀 | 平安 | 擦文 | → グスク時代 |
| 13世紀〜 | 鎌倉 | アイヌ文化 | グスク時代 |
| 15世紀〜 | 室町 | アイヌ文化 | 琉球王国 |
この表が、この記事のすべてです。
北海道に弥生時代はありません。古墳時代もありません。
沖縄にも弥生時代はありません。古墳時代も、飛鳥時代もありません。
本州が弥生・古墳・飛鳥・奈良と駆け抜けているあいだ、沖縄はずっと「貝塚時代」という同じ名前の時代の中にいます。1000年以上、同じ時代名です。
北の時計 ── なぜ弥生時代がないのか
答えは単純です。稲作が北海道まで届かなかったからです。
弥生時代というのは、定義からして「稲作が始まった時代」です。米を作らなければ、弥生時代は始まりません。当時の稲は寒さに弱く、北海道の気候では育ちませんでした。
だから北海道では、縄文のあとに続縄文文化という時代が来ます。「縄文が続いている」という、そのままの名前です。
「遅れていた」わけではない
ここを誤解しないでほしいところです。
北海道の人たちが米を作らなかったのは、作る必要がなかったからでもあります。
- 川にはサケが遡上してくる
- 海にはアザラシやオットセイなどの海獣がいる
- 森にはドングリやクルミ、シカやクマがいる
米に切り替えなくても、十分に食べていけたのです。むしろ、労力をかけて水田を作るほうが割に合わなかったとも考えられます。
「稲作をしなかった」は、「文明が遅れていた」とイコールではありません。環境が違えば、最適な生き方も違うというだけの話です。
孤立していたわけでもない
続縄文の遺跡からは、本州から入ってきた鉄器が出土します。米は入らなかったけれど、モノと情報は行き来していました。
閉じていたのではなく、別の選択をしていたのです。
オホーツク海沿岸には、もうひとつ別の文化があった
さらに話は複雑になります。
5世紀ごろから、オホーツク海沿岸にオホーツク文化という、また別系統の文化が現れます。北のサハリン方面から南下してきた、海の民の文化です。
- 海獣狩猟が中心(クジラ、アシカ、アザラシ)
- クマの骨を積み上げた祭壇を作る、独特の信仰
- 大陸との強いつながり
つまり北海道では、内陸の擦文文化と、沿岸のオホーツク文化が、同時に別々に存在していた時期があります。時計が3つどころか、もっと細かく分かれていたわけです。
そして13世紀、アイヌ文化へ
アイヌ文化は13世紀以降、サハリン・千島・北海道・北東北のアイヌの人びとが、狩猟や漁撈、植物採集に加え、アムール川下流域や沿海州、そして本州の和人と交易をもちつつ育んできた独自の文化です。
ここで注目したいのが、「交易」という言葉です。
アイヌの人びとは、北はアムール川流域や沿海州、南は本州の和人と、両方向に交易のネットワークを持っていました。
そのなかでもよく知られているのが、蝦夷錦です。中国大陸で作られた豪華な絹織物が、樺太を経由してアイヌの手に渡り、さらに松前を通って本州へと運ばれました。江戸時代の日本人が「蝦夷から来た錦」と呼んだ布は、もとをたどれば大陸のものだったのです。
閉ざされた北の民、というイメージは正確ではありません。むしろ北と南をつなぐ結節点にいた人たちでした。
南の時計 ── 貝塚時代が、延々と続く
1000年以上、同じ時代名
沖縄・南西諸島では、縄文に相当する時期から貝塚時代と呼ばれる時代が始まり、これが12世紀ごろまで続きます。
本州でいえば、弥生・古墳・飛鳥・奈良・平安の全部が、こちらでは「貝塚時代」のひとことに収まってしまいます。
ここでも稲作は主役になりませんでした。サンゴ礁に囲まれた島では、海の幸のほうが確実だったからです。
11〜12世紀、急に動き出す
そして11〜12世紀ごろ、状況が一変します。グスク時代の始まりです。
グスクとは、石垣で築かれた城のことです。各地に按司(あじ)と呼ばれる有力者が現れ、グスクを構えて争うようになります。農耕も本格化し、社会が一気に階層化していきます。
やがて三つの勢力にまとまり、1429年、尚巴志(しょう はし)がこれを統一して琉球王国が成立します。
琉球王国は15〜19世紀、南西諸島を治め、日本はもとより中国や朝鮮半島、そして東南アジアと関係を結ぶなかで、独特の文化をつくりあげました。
小さな島国が、東アジアの海の交易ネットワークの中心になった。ここでもキーワードは交易です。
でも、無関係ではなかった ── 貝の腕輪の話
ここまで「3つの別々の時計」と書いてきましたが、大事な補足があります。
別々に動いていたけれど、つながっていなかったわけではありません。
いちばんわかりやすい証拠が、貝の腕輪です。
九州の弥生時代のお墓から、白く輝く貝の腕輪が出土します。ゴホウラやイモガイという貝を輪切りにして磨いたもので、身分の高い人だけが身につけられる特別な品でした。
ところがこの貝、九州では採れません。
暖かい南の海、つまり奄美や沖縄でしか採れない貝です。
つまりこういうことになります。
沖縄に弥生時代はない。
でも、弥生時代の威信財を供給していた。
年表の外にいながら、年表の中身を支えていた。
北も同じです。続縄文の遺跡から本州の鉄器が出るということは、その逆方向にも何かが流れていたということです。
3つの時計は、別々に動きながら、互いにかみ合っていました。
沖縄の貝は、朝鮮半島の王の墓まで届いていた
話はここで終わりません。
1973年、韓国・慶州の天馬塚という新羅の王陵から、柄杓の形をした貝製品が出土しました。5〜6世紀のものです。
素材は夜光貝。沖縄や奄美の暖かい海でしか採れない、大型の巻貝です。
しかも、ただの貝ではありません。縁を金で鍍金し、表面を磨き上げて、内側は乳白色、外側は虹色に光るように仕上げてある。金の縁取りは、金を水銀に溶かして塗っては焼く工程を何度も繰り返して作られています。王の墓にふさわしい、最高級の宝器です。

【慶州・実録】新羅1000年の王道ルートを本当に歩いてみた以前、【旅行ガイド】『花郎』『善徳女王』の舞台を歩く、慶州聖地巡礼という記事で、慶州の歩き方を計画していました。 そして——実際に、行ってきました! 新羅(シル…
同じものが、隣の皇南大塚からも出ています。
面白いのは、日本側にはこれほど華麗な金縁の貝杓子が見つかっていないことです。つまり貝は沖縄産、細工は新羅製。素材だけが海を渡り、慶州の王家の工房で宝器に生まれ変わったということになります。
沖縄に弥生時代はない。古墳時代もない。
でもその海の貝は、九州を越えて、新羅の王の墓に納められていた。
まとめ ── 年表は、ひとつではなかった
「博物館で何を見る?」のシリーズでは、旧石器から奈良時代までを5本に分けて追いかけてきました。
でもあの5本は、本州・四国・九州の時計の話です。
同じ時間、北海道では続縄文から擦文へ、オホーツク沿岸では海獣狩猟の民が、沖縄では貝塚時代が、それぞれの速さで進んでいました。
そして3つの時計は、貝の腕輪や鉄器を通じて、たしかにかみ合っていました。
日本の歴史は、ひとつの物差しでは測れない。
東博の本館6室が、時代順の部屋でも素材別の部屋でもなく、独立した一室「アイヌと琉球」として置かれている理由は、ここにあります。
東博のアイヌ資料は、1873年に開催されたウィーン万国博覧会の事務局から引き継いだ資料や、寄贈を受けた個人コレクションからなり、生活用具・衣服・武具・祭祀具など膨大な数にのぼります。
琉球資料のほうは、1884年に農商務省が沖縄県から購入した資料や、寄贈を受けた個人コレクションが中心で、生活用具をはじめ絵画や文書、古写真も含む幅広いものです。
どちらも明治初期です。
