日本書紀の天皇(1神武〜15応神)

🕓 更新日:2025年5月24日

個人的な備忘録として、調べながら書いているブログです
書き足し、修正、アップデートを重ねています

目次
  1. はじめに
  2. 神武東征以前
  3. 初代 神武天皇(じんむ)
  4. 第2代 綏靖天皇(すいぜい)
  5. 第3代 安寧天皇(あんねい)
  6. 第4代 懿徳天皇(いとく)
  7. 第5代 孝昭天皇(こうしょう)
  8. 第6代 孝安天皇(こうあん)
  9. 第7代 孝霊天皇(こうれい)
  10. 第8代 孝元天皇(こうげん)
  11. 第9代 開化天皇(かいか)
  12. 第10代 崇神天皇(すじん)
  13. 第11代 垂仁天皇(すいにん)
  14. 第12代 景行天皇(けいこう)
  15. 第13代 成務天皇(せいむ)
  16. 第14代 仲哀天皇(ちゅうあい)
  17. 摂政 神功皇后(じんぐう)
  18. 第15代 応神天皇(おうじん)

はじめに

妃および子女については、代表的な人物のみを抜粋して記載しています

▲ 天皇の称号について

生前の本名
*神聖なものとされ、生きている間には口にすることはタブー
諡号天皇が亡くなったあとに贈られるおくり名
▲漢風諡号 → 二字名のおくり名「○○天皇」
▲和風諡号 → 長い名前のおくり名

天武天皇の時代(壬申の乱のあと)に、諡号が本格的に使われる
→ 漢風諡号は、淡海三船(弘文天皇の曾孫で、奈良時代のエリート学者官僚)が過去の大王たちに諡号をまとめてつけた(『日本書紀』の原本には記載されていない)と考えられています
→ 和風諡号も、制度として記録に登場するのは第41代・持統天皇(703年)以降
→(注意)15代応神天皇~26代継体天皇あたりの天皇については、記録に残る名は諱であり「和風諡号ではない」とする見解が有力

▲ 👤消える皇子
→ 地方豪族とのつながりを示すだけの役割のような存在を表現しています
→ 系譜には登場するが、その後の活躍や足跡がぱたりと消える皇子

▲ 📚「異伝」について
本文:皇后は〇〇の娘とする。
一書第一:△△の娘とする。
一書第二:□□の娘とする。

→ このように複数の別バージョンが書き添えられている
→「本編ではこの説を採用するけど、こんな伝承もあった」と提示する
→ 豪族・土地の神・伝承にも気を配った結果(根回しの記録)

▲ 📘『上宮記 逸文(釈日本紀)』
→『記紀』では詳しく語られない「継体天皇の出自(系譜)」についての資料
👉 詳しくは 参照用ページ(史料のまとめ)/上宮記

▲📘『新撰姓氏録』
→ 平安初期にまとめられた氏族リストで、古代豪族の由来や分類を知る重要な資料
👉 詳しくは 参照用ページ(史料のまとめ)/新撰姓氏録

▲ 📘『百済三書』逸文
『百済三書』は『百済記』・『百済新撰』・『百済本記』の3書の総称(百済の歴史を記録した歴史書)
→ 現存せず、逸文が『日本書紀』にのみ引用されて残されている
→ 後世の言葉や潤色が見られ『日本書紀』用の捏造とも考えられるが、実際に書かれた歴史書とみなすのが妥当とされている
→ 『百済記』5か所・『百済新撰』3か所・『百済本記』 18か所

▲ 欠史八代について
第2代綏靖天皇〜第9代開化天皇までの8代の天皇
→ 後世の創作によるものと見られ、欠史八代の天皇が実在した可能性は学術的にはほぼない
→ 欠史八代の諡号は、後の時代(主に7〜8世紀)の命名スタイルを反映しており、史実というより後世の創作要素が強いと考えられている。
→ 全員が父から子への直系継承になっている

神武東征以前

▲神武天皇から見た祖先
1 アマテラス(天照大神): 太陽神、皇祖神
2 アメノオシホミミ(天忍穂耳命): 天孫降臨の命を受けるが、地上の状況が不安定なので辞退
3 ニニギ(瓊瓊杵尊):✅天孫降臨した神
4 ヒコホホデミ(彦火火出見尊:山幸彦):海神の娘・豊玉姫(とよたまひめ)と結ばれる
5 ウガヤフキアエズ (鵜葺草葺不合尊):海と山の神の血を継ぐ存在

✅ 天孫降臨と国譲り神話
『古事記』における国譲りの流れ(スサノオ〜大国主系の話が詳しく描かれる)
→ 大国主神が国を治めていた(協力者:スクナビコナ)
→ スクナビコナは常世国へ旅立ち、大国主は国造りに行き詰まる
大物主神(三輪山の神)が現れ、三輪山に祀れば国造りはうまくいくと告げる
→ 天照大神が「国を譲れ」と使者を送る
・・・アメノホヒ → 帰ってこない
・・・アメワカヒコ → 結婚し帰らない
・・・タケミカヅチ(武神) → ついに登場!
→ 大国主神は息子コトシロヌシに判断を委ね、同意
・・・国を譲るかわりに、出雲大社を建立することを要求
→ しかしもう一人の息子タケミナカタが反抗
・・・✅タケミカヅチに敗れ、信濃(諏訪)へ逃れる(タケミナカタは諏訪信仰の中心に)
ニニギ(瓊瓊杵尊)の天孫降臨へ
*『日本書紀』では、最低限の国譲り描写にとどまり、タケミナカタ神は登場しない

タケミカヅチと鹿島神宮と春日大社
鹿島神宮(常陸):タケミカヅチを祀る古くからある神社
→ 創建時期不詳だが、神話上は古代から存在
春日大社(奈良):藤原氏の氏神として創建(768年)
→ 鹿島からタケミカヅチを勧請

出雲大社・大神神社のこと

出雲大社(島根県出雲市)主祭神:大国主神
大神神社(奈良県桜井市三輪)
→ 三輪山そのものがご神体
主祭神:大物主神
→ 『日本書紀』では、大物主は大国主の和魂
→ 『古事記』では、大国主命とは別の神

天津神・国津神

天津神天上(高天原)に住む神、天降った神
代表格:アマテラス
「皇祖神」を中心とした神々の系譜
国津神地上(葦原中国)にすむ神
代表格:スサノオ、大国主神
土地の神

🔍 ひとこと:天津神系から外れた側

スサノオ(素戔嗚尊)
→アマテラスの弟
高天原で乱暴をはたらいて追放され、出雲へ
八岐大蛇を退治する英雄的な一面も
大国主の先祖(6世)
→『古事記』ではもっと近親
ホスソリ(火闌降命:海幸彦)
→ヒコホホデミ(山幸彦)の兄
釣針の事件で弟に服属し
隼人(九州南部)の祖とされる

初代 神武天皇(じんむ)

アマテラスの5代後の子孫

在位期間前660年~前585年(享年127歳)
皇居畝傍橿原宮(奈良県橿原市)
陵墓伝承地畝傍山東南陵(奈良県橿原市)
彦火火出見(ひこほほでみ:祖父と同じ)
狭野(さの)
和風諡号神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)
*磐余(イワレ)は奈良県桜井市と橿原市の境界付近、天香具山の北東麓
美称始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)
鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)
✅玉依姫(タマヨリヒメ)
皇后✅媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)
✅吾平津媛(あひらつひめ)

✅ 母:玉依姫は、ワタツミ(海神)の娘
→ 姉・豊玉姫が出産を終えて海に帰った後、甥(ウガヤフキアエズ)を育て、後に結婚して4人の子をもうけた(末子が神武天皇)
海の神の血筋天孫系の系譜をつなぐ存在

✅ 皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命は、コトシロヌシ(事代主)の娘
→『古事記』では大物主の娘
→ コトシロヌシは、大国主の子(国譲り神話のYESマン)
→ 子:神八井耳命(第2代綏靖天皇の兄)
・・・のちに、手研耳命(異母兄)を討伐する際に、手が震えて矢を射ることができず
・・・弟(第二代綏靖天皇)が矢を放ったことを恥、天皇にはならず「祭祀を司る役目」に
・・・✅多氏の祖

🔍 ひとこと:多氏(おおし)
日本最古の皇別氏族で、「太」「大」「意富」「飯富」「於保」とも記される
太安万侶(『古事記』の編者)もこの一族

✅ 吾平津媛は、東征前に日向国で娶った最初の妃
→ 日向地方(吾田邑)の豪族の娘と考えられる
→ 子:手研耳命
・・・のちに、兄弟で継承問題が起き、討伐される

🌟 神武東征(大和への遠征)
1 日向(現在の宮崎)から東征を開始(45歳ごろ)
2 九州北部 → 吉備(岡山)で3年間滞在し軍備を準備
・・・速吸門(豊予海峡)で椎根津彦(しいねつひこ:倭直部の祖)と出会う
3 大阪(難波)→ 奈良(大和)をめざす
4 長髄彦(ながすねひこ)と遭遇し戦いに(兄:五瀬命は死亡)
→長髄彦は、✅ニギハヤヒを神と仰いで仕えていた大和の土着豪族
5 熊野 → 奈良(大和)をめざす(熊野へ迂回ルートを取る)
→ 高倉下(たかくらじ:尾張連の遠祖)がタケミカヅチの剣(布都御魂)を持参
→ ✅八咫烏(やたがらす:三本足のカラス)が、熊野から大和への道案内をした
→ 道臣命(✅アメノオシヒの後裔で大伴氏の祖)が大来目(✅アマツクメの後裔で久米直の祖)を率いて軍を指揮
→ 菟田県(宇陀郡)の兄猾が謀反を企てるが、弟猾(猛田県主に任命)が密告し、道臣命が討伐
→ 兄磯城・弟磯城を呼び出すが、兄磯城は反逆(斬首)・弟磯城は服従(磯城県主に任命)
6 長髄彦と再度対峙
→ ニギハヤヒが長髄彦を討ち、神武に帰順
7 橿原宮で即位

🔍 ひとこと:ニギハヤヒ(饒速日命)
ニギハヤヒは、神武より先に天磐船で降臨した「もう一人の天孫」
→ 大阪・交野市(磐船神社周辺)に降臨し、大和地方へ移動
→ 『古事記』では長髄彦の妹:登美夜毘売(とみやひめ)との子がウマシマジ
→ ウマシマジは、物部氏、穂積氏、采女氏らの祖

🔍 ひとこと:八咫烏(やたがらす)
八咫烏の子孫は葛野主殿縣主となる
📘『新撰姓氏録』
→ カモタケツヌミノミコト(賀茂建角身命)が八咫烏に化身して神武天皇を先導したとされる
→ カモタケツヌミノミコトは、賀茂県主や葛城国造の始祖
→ 下鴨神社の祭神

🔍 ひとこと:アメノオシヒ(天忍日命)とアマツクメ(天津久米命)
→ ▲アメノオシヒ:大伴氏の祖神で、天孫降臨の際にニニギに随伴
→ ▲アマツクメ:久米部の祖神で、天孫降臨ではアメノオシヒとニニギに随伴
→『日本書紀』では天忍日命に率いられる立場『古事記』では対等
・・・のちに久米部が大伴氏の指揮下に置かれたことが、記述の違いに影響した🤔

🌟 神武76年:崩御

第2代 綏靖天皇(すいぜい)

「欠史八代」の一人

在位期間前581年~前549年(享年84歳)
皇居葛城高丘宮(奈良県御所市)
陵墓伝承地桃花鳥田丘上陵(奈良県橿原市)
和風諡号神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみ)
→ 新潟県の「沼川」や越の国に関係?
神武天皇(第三皇子)
媛蹈鞴五十鈴媛命
皇后五十鈴依媛命(母の妹=叔母)

🌟 綏靖33年:崩御

第3代 安寧天皇(あんねい)

「欠史八代」の一人

在位期間前549年~前511年(享年57歳)
皇居片塩浮孔宮(奈良県大和高田市)
陵墓伝承地畝傍山西南御陰井上陵(奈良県橿原市)
和風諡号磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみ)
磯城県主との結びつきを示唆🤔
綏靖天皇
五十鈴依媛命
皇后渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめ)
→ コトシロヌシの子孫
→「異伝」では磯城県主葉江の娘である川津媛
系譜(特記事項)子:✅磯城津彦命(第4代懿徳天皇の弟)

✅磯城津彦命(👤消える皇子)
→ 猪使氏(天武天皇の八色の姓の制定で宿禰の姓を与えられている)の祖
→ 磯城県主の関係を示す名前と見られる

🔍 ひとこと:磯城県主
→ 磯城県主は、初期天皇の妃を多数輩出した「外戚」としてたびたび(📚「異伝」)に登場している

🌟 安寧38年:崩御

第4代 懿徳天皇(いとく)

「欠史八代」の一人

在位期間前510年~前477年(享年77歳)
皇居軽曲峡宮(奈良県橿原市)
陵墓伝承地畝傍山南繊沙渓上陵(奈良県橿原市)
和風諡号大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとも)
安寧天皇(第二皇子)
渟名底仲媛命
皇后天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)
→ 息石耳命(兄)の娘=姪

🌟 懿徳34年:崩御

第5代 孝昭天皇(こうしょう)

「欠史八代」の一人

在位期間前475年~前393年(享年113歳)
皇居掖上池心宮(奈良県御所市)
陵墓伝承地掖上博多山上陵(奈良県御所市)
和風諡号観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしね)
→ 美濃国の観松郷に由来するとも?
懿徳天皇
天豊津媛命
皇后✅世襲足媛(よそたらしひめ)
系譜(特記事項)子:✅天足彦国押人命(第6代孝安天皇の兄)

✅皇后:世襲足媛
→ 兄:瀛津世襲は「尾張氏」の祖
→ 尾張氏は、天孫系のアメノホアカリを始祖に持つ名門の「海人系地方豪族」

✅子:天足彦国押人命(👤消える皇子)
→ 娘:押媛は第6代孝安天皇の皇后
→ 天足彦国押人命は「和珥氏」の祖とされる
→ 和珥氏は、奈良県天理市あたりを本拠とする「中央豪族」
・・・出自については朝鮮系鍛冶集団や海人族などさまざまの説がある
→ 和珥氏からのちに派生したのが、春日氏・小野氏など
▲ 春日氏は、蘇我氏の台頭期に衰退(春日大社がらみで藤原氏となにかありそうな気が❓🤔)
▲ 小野氏は、文化系エリート氏族(後の中央官僚として栄える)
→ 小野妹子や小野篁など有名人が多数

🔍 ひとこと:アメノホアカリ(天火明命:古事記での表記)
具体的な活躍シーンや神話的エピソードがほぼ無い神
→ 系譜は文献によってバラバラ(ニニギの兄や子、ニギハヤヒの別名など)
→ 太陽神・農業神・天孫系の祖神的存在
→ 尾張氏・海部氏・丹波氏などの祖神とされる
→ 後世に「天孫の系譜にしたい」という意図で整理された可能性も🤔

🌟 孝昭83年:崩御

第6代 孝安天皇(こうあん)

「欠史八代」の一人

在位期間前392年~前291年(享年137歳)
皇居室秋津島宮(奈良県御所市)
陵墓伝承地玉手丘上陵(奈良県御所市)
和風諡号日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひと)
孝昭天皇(第二皇子)
世襲足媛
皇后押媛(おしひめ)
→ 天足彦国押人命(兄)の娘=姪

🌟 孝安102年:崩御

第7代 孝霊天皇(こうれい)

「欠史八代」の一人

在位期間前290年~前215年(享年128歳)
皇居黒田廬戸宮(奈良県磯城郡田原本町)
陵墓伝承地片丘馬坂陵(奈良県北葛城郡王寺町)
和風諡号大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとに)
孝安天皇
押媛
皇后細媛命(くわしひめのみこと)
→ 磯城県主の大目の娘
✅倭国香媛(やまとくにかひめ)
✅絙某弟(はえいろど)

✅妃:倭国香媛は、出自の記載がない
→『古事記』では安寧天皇の曾孫で淡路島出身の蠅伊呂泥
→ 妹:絙某弟(蠅伊呂杼)も孝霊天皇の側室
→ 子:倭迹迹日百襲姫命は、巫女的存在(卑弥呼説もある)
・・・崇神天皇の時代に活躍する伝説的な女性で、三輪山信仰とも関係あり(大物主の妻)
・・・箸墓古墳(古墳時代の始まりとされる最古の前方後円墳)の被葬者とされている人物
→ 子:彦五十狭芹彦命は、通称:吉備津彦命
・・・四道将軍の一人(西道)
・・・吉備地方を平定した武将(兄・主将格)
・・・温羅という鬼を退治した伝説(温羅伝説)は「桃太郎」のモチーフになったともいわれる

✅妃:絙某弟(蠅伊呂杼)は、倭国香媛の妹
→ 子:稚武彦命は、「吉備氏」の祖とされる
・・・吉備地方を平定した武将(弟・副将格)
・・・稚武彦命の子:播磨稲日大郎姫は、景行天皇の皇后でヤマトタケルの母
・・・稚武彦命の子:伊那毘能若郎女は、景行天皇の妃で彦人大兄命の母(彦人大兄命の娘:大中姫は、第14代仲哀天皇の妃で、その子供の麛坂皇子・忍熊皇子は仲哀天皇の死後に反乱を企て絶命)
→ 子:彦狭島命は、伊予(四国)に渡たり、伊予神社の主祭神として祀られている

🔍 ひとこと:温羅伝説と鬼ノ城
→ 地元に伝わるもうひとつの温羅像
→ 温羅は百済から来た王子で、鍛冶・土木・文化に優れた集団のリーダー的存在
→ 温羅が拠点とした「鬼ノ城」は、古代山城跡が実在❗️
→ 7世紀の朝鮮式山城の構造
→ 史書に記載のない謎の城(他の山城は記載有り)
→ 温羅が築いた山城をのちに政権側が再利用したのかも❓🤔

🌟 孝霊76年:崩御

第8代 孝元天皇(こうげん)

「欠史八代」の一人

在位期間前214年~前158年(享年116歳)
皇居軽境原宮(奈良県橿原市)
陵墓伝承地剣池嶋上陵(奈良県橿原市)
和風諡号大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくる)
孝霊天皇
細媛命
皇后✅欝色謎命(うつしこめのみこと)
✅伊香色謎命(いかがしこめのみこと)
✅埴安媛(はにやすひめ)

✅ 皇后:欝色謎命
→ 兄:欝色雄命は「穂積氏」の祖(ニギハヤヒ系の天孫氏族)
・・・穂積氏は奈良の山辺郡・十市郡本拠とした豪族(新羅征討、壬申の乱などに関わる)
→ 子:大彦命(おおひこ)は、開化天皇で兄にあたり、四道将軍の一人(北陸道)
・・・阿倍臣、膳臣、阿閉臣、狭狭城山君、筑紫国造、越国造、伊賀臣ら7氏の始祖
・・・大彦命の娘:御間城姫(みまきひめは)、第10代崇神天皇の皇后
・・・大彦命の子:武渟川別(たけぬなかわわけ:阿倍氏の祖)は、崇神朝では四道将軍の一人・垂仁朝では五大夫の1人!!

✅妃:伊香色謎命(いかがしこめ)
→ 兄:伊香色雄命は、物部氏の祖(ニギハヤヒ系の天孫氏族)
→ 最初に第8代孝元天皇の妃となり彦太忍信命(武内宿禰の祖父)を産む
・・・武内宿禰は5代の天皇(景行・成務・仲哀・応神・仁徳)に仕えた伝説の忠臣
→ なんと第9代開化天皇の皇后となり、第10代崇神天皇も出産

✅妃:埴安媛は、河内の青玉繋の娘
→ 子:武埴安彦命は、崇神天皇の時代に反乱を起こし、大彦命らに討伐される

🌟 孝元57年:崩御

第9代 開化天皇(かいか)

「欠史八代」の一人

在位期間前158年~前98年(享年111歳)
皇居春日率川宮(奈良市)
陵墓伝承地春日率川坂上陵(奈良市)
和風諡号稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひ)
孝元天皇
欝色謎命
皇后✅伊香色謎命
✅丹波竹野媛(たにわのたかのひめ)
✅姥津媛(ははつひめ)

✅皇后:伊香色謎命
・・・開化天皇は父(孝元天皇)の妃を皇后に迎えている

✅妃:丹波竹野媛丹波竹野媛は、丹波大県主由碁理の娘
→ 子:彦湯産隅命(丹波道主命の父を彦湯産隅命する別伝もある)

✅妃:姥津媛は、和珥氏の遠祖
→ 子:彦坐王

🔍 ひとこと:彦坐王(ひこいますのみこ)(👤消える皇子)
『古事記』に詳細な系譜あり
→ 子:丹波道主命は、四道将軍の一人(丹波道:山陰)
・・・丹波道主命の娘:日葉酢媛命は、第11代垂仁天皇の皇后(後)となる
・・・丹波道主命の母は、息長水依比売命(アメノミカゲ(天之御影神)という神様の娘)
・・・この神さまは、近江国の三上山のご神体で、刀鍛冶の神
→ 子:狭穂姫は、第11代垂仁天皇の最初の皇后
・・・狭穂姫の兄:狭穂彦王に天皇殺害をそそのかされ失敗し、兄妹は自害
・・・二人の母は沙本之大闇見戸売(春日建国勝戸売の娘)
→ 子:山代之大筒木真若王は、神功皇后の曾祖父
・・・山代之大筒木真若王の母は、姥津媛(母)の妹

🌟 開化60年:崩御

第10代 崇神天皇(すじん)

在位期間前97年~前30年(享年120歳)
皇居磯城瑞籬宮(奈良県桜井市)
陵墓伝承地山邊道勾岡上陵(奈良県天理市:行燈山古墳)
御間城入彦尊(みまきいりひこ)
和風諡号御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)
別称御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)
→ 初めて「国家としての統治」を行った天皇
開化天皇(第二皇子)
伊香色謎命
皇后御間城姫(みまきひめ)
→ 従妹・大彦命の娘
✅遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)
✅尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)

✅妃:遠津年魚眼眼妙媛は、紀国造族:荒河戸畔(あらかとべ)の娘
→ 子:豊城入彦命(とよきいりひこ)は、東国を治めさせるために派遣
・・・上毛野氏・下毛野氏(群馬・栃木あたり)の祖とされる
・・・豊城入彦命の子:八綱田(やつなた)は垂仁天皇の条の「狭穂彦王の反乱」の際に狭穂彦王を自殺に追こんだ功により「倭日向武日向彦八綱田」の号が授けられた
・・・豊城入彦命の孫:彦狭島王(ひこさしまおう)は初代上毛野国造とされる
・・・彦狭島王の子:御諸別王(みもろわけのおう)は景行天皇に時代に東国を治める
→ 子:豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)は、巫女的存在(卑弥呼の後継・台与説もある)
・・・天照大神を祀った最初の皇女(斎宮制度の起源)
・・・のちにこの役割は倭姫命(垂仁天皇の娘)へ引き継がれる

✅妃:尾張大海媛
→ 子:渟名城入姫命
・・・倭大国魂神を祀る神主に任命されるが、髪が抜け、体が痩せて祀れなかったため、神のお告げにより市磯長尾市(いちしのながおち:倭氏の遠祖)に祀らせよということになる
→ 子:八坂入彦命(👤消える皇子)
・・・八坂入彦命の娘:八坂入媛命が第12代景行天皇の皇后(後)となる

🌟 崇神5年:疫病が大流行、人口の半分が失われる
🌟 崇神6年〜7年:神々の祀り方を改める
→ 天照大神と倭大国魂神を天皇の居所から別々の場所へ
・・・▲ 天照大神:豊鍬入姫命に託して笠縫邑へ(斎宮制度の始まり)
・・・▲ 倭大国魂神:倭氏一族が関与(大倭直:大和神社の神主を務める家系の始まり)
・・・▲ 大物主神:お告げにより、伊香色雄(物部氏の祖)に命じ、茅渟県(大阪府南部:和泉)で大田田根子をみつけて祭祀主に
・・・大田田根子は三輪氏(大神氏)の始祖になる
→ 疫病は終息

🌟 崇神10年:武埴安彦命が謀反を計画:倭迹迹日百襲姫命(第7代孝霊天皇の娘)が予言したことで、鎮圧される

🔍 ひとこと: 倭迹迹日百襲姫命(百襲姫)の箸墓伝説(『古事記』には記載なし)
→ 百襲姫は大物主神の妻となった(でも正体は見せてくれない)
→ 正体を見たいと願い出たところ、蛇の姿で現れる
→ 百襲姫が驚いて叫ぶと、大物主神は「恥ずかしい」と三輪山に帰ってしまう
→ 百襲姫はガックリして急にすわったところ、箸が陰部に突き刺さって亡くなる
→ 彼女の墓を箸墓(はしのみはか)と名付ける

🌟 崇神10年:四道将軍の派遣(全国支配を目指した軍事行動)
▲ 大彦命 (北陸道):第8代孝元天皇の子
▲ 武渟川別命 (東海道):大彦命の子
▲ 吉備津彦命 (西道):第7代孝霊天皇の子
▲ 丹波道主命(丹波道:山陰):第9代開化天皇の孫(彦坐王の子)
→ 異俗の人が多く帰順して、国内が安定した

🌟 崇神12年:全国の戸口を調査し、はじめて課役(税・労役)を実施

🌟 崇神60年:飯入根が出雲の神宝を献上
→ 怒った出雲振根(兄:出雲氏の遠祖)が飯入根(弟)を謀殺
→ 出雲振根は、皇軍に誅殺された
・・・出雲豪族の内紛とヤマトの介入を描いたストーリー
・・・出雲祭祀が一時中断するほどの大きな事件だった🤔
・・・『古事記』では「出雲建」がヤマトタケルに討たれる話

🌟 崇神62年:依網池、苅坂池、反折池を造成(河内の水田の灌漑用)

🌟 崇神65年:任那から使者「蘇那曷叱知」が朝貢

🌟 崇神68年:崩御

第11代 垂仁天皇(すいにん)

在位期間前29年~後70年(享年140歳)
皇居纒向珠城宮(奈良県桜井市)
陵墓伝承地菅原伏見東陵(奈良市:宝来山古墳)
活目尊(いくめ)
和風諡号活目入彦五十狭茅天皇
(いくめいりひこいさちのすめらみこと)
崇神天皇
御間城姫
皇后✅狭穂姫命(さほひめのみこと):最初の皇后

✅日葉酢媛命(ひばすひめのみこと):2番目の皇后
✅綺戸辺(かにはたとべ)

✅皇后:狭穂姫命は、彦坐王(第9代開化天皇の子)の娘
→ 兄:狭穂彦王(甲斐国造の祖)から天皇の殺害を頼まれ失敗、兄妹とも自害
→ 子:誉津別命(ほむつわけ)
・・・大人になっても言葉を話さず、白鳥を見て初めて言葉を発した
・・・天皇は喜び、天湯河板挙に白鳥を捕まえさせた

✅皇后:日葉酢媛命は、彦坐王の子である丹波道主王の娘
→ 子:大足彦忍代別尊(弟)
・・・皇位を望んだので、第12代景行天皇
→ 子:五十瓊敷入彦命(兄)
・・・弓矢を望んだので、石上神宮(武器庫のような場所)を管掌
・・・のちに、物部十千根(もののべのとおちね)に治めさせた(物部氏が石上神宮の祭祀となる起源)
→ 子 : 倭姫命は、アマテラスを伊勢神宮に祀った人物
→ 子 : 大中姫命(第14代仲哀天皇の妃と同名?)

✅妃:綺戸辺(『古事記』:弟苅羽田刀弁)は、山背の大国不遅の娘
→ 子:両道入姫命は、ヤマトタケルの妃で、第14代仲哀天皇の母
→ 子:磐衝別命(👤消える皇子)
・・・三尾君の祖(北近江から北陸地方に勢力を持った地方豪族)
・・・📘『上宮記 逸文(釈日本紀)』には磐衝別命の後裔の系譜の記載があり
・・・五世孫の振媛は彦主人王に嫁ぎ、乎富等大公王(第26代継体天皇)を生んだ

🔍 ひとこと:垂仁天皇は、五大夫(天皇の側近)を集めた
▲ 十千根(物部連祖)
▲ 武日(大伴連祖)
▲ 彦国葺(和珥臣祖)
▲ 武渟川別(阿倍臣祖)
▲大鹿島(中臣連祖)

🌟 垂仁2年: 任那から使者「蘇那曷叱知」が、帰国に際して天皇から任那王へ赤絹100匹(200段)が贈られたが、新羅に奪われた
→ これが任那と新羅の争いの始まり
・・・任那は、倭との交流が深い加耶諸国の一部または総称として扱われた地域名

🌟 垂仁3年:新羅王子のアメノヒボコ(天日槍)が神宝を奉じて来朝
アメノヒボコ本人とその曾孫、玄孫に関する記述が垂仁天皇条にある(矛盾❗️)

🌟 垂仁5年:皇后の兄の狭穂彦王が叛乱を起こし、皇后は兄に従って焼死

🌟 垂仁7年:野見宿禰が当麻蹴速と相撲をとり蹴殺す(相撲節会の起源説話)
🌟 垂仁32年 :日葉酢媛命が薨去、野見宿禰の進言に従い、殉死の風習に替えて埴輪を埋納

🔍 ひとこと:野見宿禰
野見宿禰は、出雲の豪族で「土師氏」の祖
→ 当麻蹴速と力比べのために、出雲から大和へ招かれ、勝負に勝つ(相撲の起源?)
→ 日葉酢媛命(皇后)が亡くなったとき、殉死の代わりに土で作った像を提案(埴輪の起源?)

🌟 垂仁15年:後宮に入れた丹波道主王の女たちから日葉酢媛命を皇后にする

🌟 垂仁23年:天湯河板挙(鳥取造の祖)が「出雲国」まで行って白鳥を捕らえる
→ 鳥取部・鳥養部・誉津部が設けられた(誉津別命が初めて言葉を発した記念)

🌟 垂仁25年:天照大神の祭祀担当を豊鍬入姫命(崇神天皇の皇女)から倭姫命(垂仁天皇の皇女)に移す
→ 倭姫命は各地を巡って(宇陀 → 近江 → 美濃)最終的に伊勢に決定

🌟 垂仁27年:初めての屯倉(天皇の直轄地)を来目(奈良県橿原市)に設置

🌟垂仁35年:五十瓊敷入彦命に河内国に農業用に多くの池溝をつくらせた

🌟 垂仁39年:五十瓊敷入彦命が剣千振を作り石上神宮に納める

🌟 垂仁87年:昔丹波国の桑田村の甕襲(みかそ)の家にいた足往(あゆき)という犬が牟士那(むじな)という獣を食い殺し、その獣の腹にあった「八尺瓊の勾玉」が献上され、この玉が今石上神宮にある

🌟 垂仁88年:アメノヒボコの「神宝」を見たいと思い、清彦(アメノヒボコの曾孫)に献上を命じた
→ 清彦は「出石(小刀)」だけは隠したが、酒席で見つかりやむなく献上
→ 小刀は石上神宮の神府に納められたが、のちに消えた
→ 天皇は、それ以上追及しなかった
→ 小刀は後に淡路島に流れ着き、生石神社で祀られている

🌟 垂仁90年:田道間守(アメノヒボコの玄孫)に命じて常世国の非時香菓を求めさせる
→ 田道間守は清彦の子で三宅氏の始祖
→ 垂仁天皇の命により、不老長寿の薬を探しに常世国へ旅立ち、非時香菓(橘)を持ち帰る
→ 天皇がすでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺

🔍 ひとこと:アメノヒボコ(天日槍)
→ アメノヒボコは、新羅の王子で「八種の神宝」を持って来日
→ 菟道河(宇治川)→ 近江 → 若狭 → 但馬
→ 日本で定住(但馬国:兵庫県北部)
→ 複数の神社で神様として祀られている(渡来神・製鉄神・開拓神)
→ アメノヒボコの妻
・・・▲『古事記』では
・・・阿加流比売神(アメノヒボコの最初の妻)が、日本の難波にわたり、比売語曽社の神になった
・・・アメノヒボコは、阿加流比売神を追って来日するも、難波に入れずに但馬に滞在
・・・そこで前津見(但馬の豪族の娘)と結婚
・・・▲『日本書紀』では、
・・・比売語曽社の神は童女(名前はない)
・・・童女を追って来日するのは都怒我阿羅斯等(大伽耶の王子)
→ アメノヒボコは、神功皇后の母方の祖先
・・・▲清彦(アメノヒボコの子孫)の娘:葛城高顙媛(神功皇后の母)の母
・・・▲清彦(アメノヒボコの子孫)の兄弟:葛城高顙媛(神功皇后の母)の父

🌟 垂仁99年:崩御

第12代 景行天皇(けいこう)

在位期間71年~130年(享年106歳)
皇居纒向日代宮(奈良県桜井市)
志賀高穴穂宮(滋賀県大津市)
陵墓伝承地山辺道上陵(奈良県天理市:渋谷向山古墳)
大足彦尊(おおたらしひこ)
和風諡号大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけ)
垂仁天皇(第三皇子)
日葉酢媛命
皇后✅播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)
✅八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)
系譜(特記事項)妃が多く、『古事記』では御子が80人

🔍 ひとこと:別王の子孫
景行天皇は、成務・ヤマトタケル・五百城入彦の3人を除き、皇子たちを地方の支配者として配置した
→ 諸国の別(わけ:氏族の称号の由来)はこれら「別王の子孫」と伝えられている
→ 本来は5世紀頃の皇族が称した称号で、地方の豪族にも腸与したもの

✅皇后:播磨稲日大郎姫は、孝霊天皇の孫
→『古事記』では若建吉備津日子(孝霊天皇の子)の娘
→ 子:大碓命(双子の兄)
・・・天皇の命で美濃国造の美人姉妹を迎えに行ったが、姉妹と密通して任務放棄
・・・天皇の怒りを買い、美濃国に左遷
・・・『古事記』では、朝の食事こない大碓命を「諭せ」を「抹殺」と誤解した小碓命(弟)が殺害
→ 子:小碓命(双子の弟)
・・・16歳で熊襲(南九州)を討伐、日本武尊(『古事記』では倭建命:ヤマトタケル)の名を賜る
・・・東国遠征時には、伊勢神宮に仕える倭姫命(叔母)から剣を授かる
・・・弟橘媛(妃:穂積氏の娘)が身代わりとして荒れた海に入り、船が進めるようになった
・・・蝦夷を平定し、ヤマトの支配を拡大
・・・剣を宮簀媛(妃:尾張国造の娘)に預ける
・・・帰路に病を得て能褒野(三重県)で30歳で死去(白鳥となった伝説が残る)
・・・『古事記』では、残忍さを恐れられ、景行天皇に疎まれる
・・・『日本書紀』では、理想的な皇子、景行天皇は死を悼みその足跡を追って巡幸する
→ 妹:伊那毘能若郎女は、同じく景行天皇の妃
・・・伊那毘能若郎女の子:彦人大兄命
・・・彦人大兄命の娘:大中姫は、第14代仲哀天皇の妃
・・・大中姫の子:麛坂皇子・忍熊皇子は仲哀天皇の死後に反乱を企て、命を落とした

🔍 ひとこと:草薙剣
三種の神器の一つ(熱田神宮にある本体と、皇居にある形代の2つがある)
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)
→ スサノオがヤマタノオロチを退治した時、大蛇の体内から見つかった神剣
→ スサノオが天照大神に献上
→ 天孫降臨の際、ニニギノミコトとともに地上へ
→ 崇神・垂仁の時代に、本体は笠縫宮から伊勢神宮に移される
→ 倭姫命(伊勢神宮の斎宮)からヤマトタケルへ授けられる
→ 火攻めに遭った際、この剣で草をなぎ払って脱出に成功
→ ここから「草薙(くさなぎ)」と呼ばれるようになる
→ 東征の帰途、剣を尾張国の妃・宮簀媛(系譜には記載なし)に預けたまま死去
→ ヤマトタケルの死後、剣は尾張国の年魚市郡(あゆちのこおり)の、熱田社
・・・現在も熱田神宮にご神体として祀られてる

✅皇后:八坂入媛命は、崇神天皇の孫
→ 父:八坂入彦命(父:崇神天皇・母:尾張大海媛)・母:未詳
・・・ 景行天皇が美濃国に行幸した際、美人姉妹の妹(弟姫)は妃になるのを拒み、姉(八坂入媛命)が妃となった
・・・播磨稲日大郎姫の没後、皇后に昇格した
→ 子:第13代成務天皇
→ 子:五百城入彦(👤消える皇子)
・・・『古事記』では五百城入彦の子:品陀真若王(ほんだのまわかのみこ)
・・・品陀真若王の娘(仲姫命)は第15代応神天皇の皇后
・・・品陀真若王の娘(高城入姫命)は第15代応神天皇の妃
・・・品陀真若王の娘(弟姫命)は第15代応神天皇の妃
→ 子:渟熨斗皇女は、五十瓊敷入彦命(景行天皇の兄)の妃
→ 子:五十狭城入彦皇子(👤消える皇子)
・・・墓が三河(岡崎市)に治定されている

🌟 景行2年:播磨稲日大郎姫を立后

🌟 景行3年:屋主忍男武雄心命(武内宿禰の父)に紀伊国の神祇を祀らせる

🔍 ひとこと:武内宿禰
→ 記紀に登場する超長寿の忠臣(5代の天皇に仕えたとされる伝説的人物)
→ 父:屋主忍男武雄心命は、彦太忍信命(父:孝元天皇、母:伊香色謎命)の子
→ 母:影媛は、莵道彦(紀氏の遠祖)の娘
→ 父が、阿備柏原(和歌山市)に9年間滞在した時に誕生(第13代成務天皇と同日に生まれたとされる)
→ 北陸・東国を視察(ヤマトタケルが東国派遣されるきっかけ)
→ 宴に遅れず真面目に参上したことで天皇に高評価され、棟梁(重臣の筆頭)に任命される

🌟 景行4年:美濃国に行幸、八坂入媛命を妃とする
→ 大碓命が美濃の美人と密通

🌟 景行12年〜19年:九州巡幸(熊襲・土蜘蛛の討伐)
→ 周防国(山口県)へ
・・・神夏磯媛(女首長)が投降し、賊(鼻垂・耳垂・麻剥・土折猪折)の情報提供
・・・珍品で油断させて4人を誅殺
→ 豊前国(福岡県)へ
・・・豊前国長峡県に居所を設置(のちの京都郡)
→ 豊後国(大分)へ
・・・ 速津媛(女首長)が現れ、土蜘蛛(青・白・打猿・八田)の情報提供
・・・ 椿の木槌で討伐
→ 日向国(宮崎)へ
・・・高屋宮を設ける(6年間滞在)
・・・市乾鹿文・市鹿文(熊襲梟帥の娘)を妃に迎えて情報入手
・・・市乾鹿文が、父:熊襲梟帥を酒で油断させ殺害
・・・市乾鹿文は親不孝で誅殺、市鹿文は火国造になる
・・・熊襲平定後、御刀媛を妃にする
・・・御刀媛との子:豊国別は日向国造の祖
→ 夷守(宮崎県小林市)へ
→ 熊縣(熊本県人吉市)で弟熊を征伐、
→ 葦北(熊本県葦北郡)の小島へ(水嶋と名付ける)
→ 八代県(熊本県八代市)の豊村へ(火国と名付ける)
→ 高来県(長崎県島原市)、玉杵名邑(熊本県玉名市)を経て阿蘇国へ
→ 御木国(福岡県大牟田市)、八女県(福岡県八女市)へ
→ 的邑(福岡県うきは市)へ
→ 日向より帰国

🌟 景行20年:五百野皇女に天照大神を祀らせる

🌟 景行25年:武内宿禰を遣わして、北陸・東方諸国を視察させる

🌟 景行27年:小碓尊が熊襲の川上梟師を暗殺、以後、ヤマトタケル(日本武尊)と名乗る

🌟 景行40年:大碓皇子に東国遠征を命じるが拒絶、代わりに美濃に封じる
→ 日本武尊が東国遠征に出発
→ 41年:ヤマトタケルが帰途に伊勢国能褒野(のぼの)で病没
・・・白鳥に姿を変え、故郷の大和に向かって飛び立ち、琴弾原に降り立ったあと、再び飛び立ち、そして、河内の旧市邑に舞い降り、天へ向かって飛び去った
→ 43年:3カ所に墓を造る(白鳥三陵)、武部を創設
・・・能褒野陵(三重県亀山市)・琴弾原陵(奈良県御所市)・旧市邑陵(大阪府羽曳野市)

🌟 景行51年:稚足彦尊を立太子し、武内宿禰を棟梁の臣(むねはりのまえつきみ:大臣)とする
捕虜となった蝦夷を播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波に送る(佐伯部の祖)

🌟 景行52年:皇后崩御、八坂入媛命を立后

🌟 景行53年:ヤマトタケルを追慕し東国巡幸

🌟 景行55年:彦狭島王(豊城入彦命の孫)が東国へ赴任、途上の春日穴咋邑で薨去、上野国で葬られる
→ 56年: 彦狭島王の子の御諸別王が東国へ赴任

🌟 景行57年:坂手池を造成、諸国に屯倉と田部(屯倉で耕作した者)をおく

🌟 景行58年:晩年、志賀高穴穂宮(滋賀県大津市)に宮を構え、3年間を過ごした

🌟 景行60年:崩御

第13代 成務天皇(せいむ)

在位期間131年~190年(享年107歳)
皇居志賀高穴穂宮(滋賀県大津市)
陵墓伝承地狭城盾列池後陵(奈良市:佐紀石塚山古墳)
稚足彦尊(わかたらしひこ)
和風諡号稚足彦天皇(わかたらしひこ)
景行天皇(第四皇子)
八坂入媛命
系譜(特記事項)『日本書紀』に后妃・皇子女の記載は無い

🌟 成務3年:武内宿禰を大臣に任じる

🌟 成務5年:「国・郡・県・邑」を定め、それぞれに国造・県主・稲置などを配置

🌟 成務48年:ヤマトタケルの第二子:足仲彦尊が皇太子に任命される
このとき足仲彦尊は31歳と推定されるが、ヤマトタケルが死んだ後に産まれたことになり、明らかに矛盾😆

🌟 成務60年:崩御

第14代 仲哀天皇(ちゅうあい)

在位期間192年~200年(享年52歳)
皇居(『日本書紀』では行宮のみ)志賀高穴穂宮(滋賀県大津市)
角鹿笥飯宮(福井県敦賀市)
徳勒津宮(和歌山市)
穴門豊浦宮(山口県下関市)
筑紫橿日宮(福岡市)
陵墓伝承地恵我長野西陵(大阪府藤井寺市:岡ミサンザイ古墳)
和風諡号足仲彦天皇(たらしなかつひこ)
ヤマトタケル(第二子)
両道入姫命(垂仁天皇皇女)
皇后神功皇后(開化天皇5世孫)
✅大中姫命(おおなかつひめのみこと)
✅弟媛(おとひめ)

✅妃:大中姫命は、景行天皇の孫(仲哀天皇の従姉妹、父は彦人大兄命)
→ 子:麛坂皇子・忍熊皇子は仲哀天皇の死後に反乱を企て、命を落とす

✅妃:弟媛(同名の人物に関する複数)は、大酒主(来熊田造の祖)の娘
→ 当時菊麻国と呼ばれた地域(千葉県市原市のあたり:菊間古墳群)
→ 子:誉屋別皇子(👤消える皇子)
・・・『古事記』では、母は神功皇后

🌟 仲哀元年:ヤマトタケル(父)を偲んで白鳥を献上さる
→ 異母弟:蘆髪蒲見別王(母:山代之玖々麻毛理比売の子)が越国の白鳥を奪い嘲笑
→ 怒って誅殺

🌟 仲哀2年
→ 気長足姫尊(神功皇后)を皇后とした
→ 角鹿の笥飯宮に滞在
→ 紀伊国で徳勒津宮に滞在
→ 熊襲を討つため穴門豊浦宮に滞在

🌟 仲哀8年:熊襲征伐のため筑紫へ赴く(筑紫橿日宮に滞在)
→ 筑紫の橿日宮へ
→ 神懸りした皇后から「熊襲ではなく新羅を得るべき」との託宣を受ける
→ 従わず熊襲を攻めて敗走

🌟 仲哀9年:崩御(急死)
→ 遺体は、武内宿禰により豊浦宮(下関)に運ばれ殯された

摂政 神功皇后(じんぐう)

仲哀天皇が亡くなったあと、息子・応神天皇が幼かったため、代わりに政務を行った

在位期間201年~269年(享年100歳)
皇居磐余若桜宮(奈良県桜井市)
陵墓伝承地狹城盾列池上陵(奈良市:五社神古墳)
気長足姫(おきながたらしひめ)
息長帯比売命(古事記)
和風諡号気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)
✅息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)
✅葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)
系譜(特記事項)子:✅誉田別尊(応神天皇)

✅父:息長宿禰王は、開化天皇玄孫
彦坐王(父:開化天皇・母・姥津媛-和珥氏系の妃)
└── 山代之大筒木真若王(父:彦坐王・母:姥津媛の妹)
└── 迦邇米雷王(父:山代之大筒木真若王・母:丹波能阿治佐波毘売-伊理泥王の娘)
└── 息長宿禰王(父:迦邇米雷王・母:高材比売-丹波之遠津臣の娘)

✅母:葛城高顙媛は、先祖にアメノヒボコ(天日槍)
・・・アメノヒボコは、新羅の王子で、日本で定住(但馬国:兵庫県北部)
・・・複数の神社で神様として祀られている(渡来神・製鉄神・開拓神)
・・・葛城高顙媛(父:多遅摩比多訶・母:菅竈由良度(姪))
多遅摩母呂須玖(父:アメノヒボコ・母・前津見)
└──多遅摩斐泥
└──多遅摩比那良岐
└──多遅摩比多訶・清彦
        └──菅竈由良度

息長宿禰王と葛城高顙媛(神功皇后の両親)の系譜の多くは、『日本書紀』には記載されていない
神功皇后は新羅と関係が深いが、『日本書紀』の編纂当時は朝鮮半島が「統一新羅」の時代🤔

🔍 ひとこと:息長氏は、古代日本の有力な氏族のひとつ
→ 主に近江(滋賀県北部)を拠点としたとされ、美濃や越前とも接点がある
・・・ 神功皇后の弟:息長日子王(『古事記』のみ)
・・・ ヤマトタケルの子:息長田別王(『古事記』のみ)

🌟 即位前
・・・ 2月、仲哀天皇天皇が、神託を信じず急死
・・・ 3月、再び神託、神の正体を確認(天照大神荒魂、事代主神、住吉三神)
・・・熊襲征伐続行(羽白熊鷲・田油津媛を討つ)
→ 三韓征伐(朝鮮半島への出兵)
・・・4月、松浦で誓約、神田作成、渡海準備
・・・9月、男装し遠征宣言、軍規を整備、航路を確認
・・・10月、妊娠中に渡海
・・・新羅王:波沙寐錦(はさむきむ)が無血開城し、微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質にして朝貢を誓い、高句麗・百済も服属
・・・12月、帰国後、筑紫で応神天皇(誉田別尊)を出産

🔍 ひとこと:住吉三神
イザナギが黄泉の国から帰還後、みそぎを行った際に海中から生まれた
→ 主に航海守護の神として信仰
→▲ 底筒男:海の深いところから生まれた神
→▲ 中筒男:海の流れの中ほどから生まれた神
→▲ 表筒男:海の上から生まれた神

🌟 摂政元年:麛坂王と忍熊王(仲哀天皇の長男と次男)が挙兵
→ 武内宿禰と武振熊(たけふるくま:和珥氏の祖)が討伐に遣わされた
→ 麛坂王は誓いの狩りで猛猪に喰われ、忍熊王は偽装和睦に敗れて入水
→ 皇后は摂政に

🌟 摂政3年:誉田別尊を太子に定める

🌟 摂政5年:微叱己知波珍干岐(新羅の人質)が本国に逃げ帰る

🌟 摂政13年
→ 太子が武内宿禰に連れられて角鹿(敦賀)の笥飯大神(『古事記』では気比大神)に参拝
→ 主に社伝や地方に伝わる縁起では
・・・太子の夢の中にイザサワケが現れ、名を交換するよう告げた
・・・翌朝、浦に出るとイルカが大量に打ち上げられてる
・・・太子は感謝してイザサワケを「御食津(みけつ)大神」と称えた
・・・イザサワケ(伊奢沙別命)は笥飯大神に特有の神で食物に関わるニュアンスを持つ神

🔍 ひとこと:ちょっと気になる福井県敦賀との関係🫢
▲笥飯
・・・仲哀天皇が角鹿(敦賀)に行宮を置き、「笥飯宮(けひのみや)」と呼ぶ
・・・笥飯宮出発から始まり、太子の笥飯大神参拝が皇后の遠征事業の終わり
・・・角鹿(敦賀)は、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇との関わりの深い場所
▲ 都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)
・・・『日本書紀』垂仁天皇紀の「一書(異伝)」で語られる、意富加羅国(伽耶)の王子
・・・彼は穴門(山口県西部)に着いたが、伊都々比古という者に邪険に扱われた
・・・雲国や越国の沿岸を回り、ようやく辿り着いたところが越国笥飯浦
・・・額には角があり、「角鹿(つぬが)」と呼ばれた、のちに「敦賀」に転じた
・・・崇神天皇に仕えようとしていたが、すでに崩御、垂仁天皇に3年仕えることになった
・・・帰国にあたり、「任那(ミマナ)」という国名を授け、赤織絹を与えた
・・・新羅側がそれを奪ったことから両国の因縁が始まる
▲朝鮮半島南部と日本列島の交流を伝える逸話
・・・穴門~出雲~越国(北陸)~最終的に敦賀に至るという航路が描かれることがある
▲ 継体天皇の出身が、越前(福井県)(『古事記』は近江)

🌟 摂政46年:斯摩宿禰を卓淳国(伽耶)に派遣、さらに斯摩宿禰が従者を百済の肖古王に派遣

🌟 摂政47年:新羅、百済の朝貢
→ 久氐(百済官吏)が新羅に貢物を奪われたと訴える
→千熊長彦を新羅に派遣、貢物を乱したことについて新羅を責める
・・・分注で、千熊長彦は『百済記』に見える「職麻那那加比跪」と同一人物か、と記されている

🌟 摂政49年:荒田別と鹿我別を将軍として、久氐らと新羅征伐へ

🌟 摂政50年:荒田別が帰国報告、 久氐は度々来朝

🌟 ✅摂政52年:久氐らがやってきて、七枝刀一口・七子鏡一面・種々の重宝を献上

🔍 ひとこと:七支刀(奈良県の石上神宮に伝わる鉄製の刀)
文字の内容
→「泰和四年(369年:有力説)に百済が倭王のためにこの刀を贈った」というのが定説
→ 七支刀=日本書紀の「七枝刀」である可能性が高い
✅52年は西暦252年は、実質的には372年と見るのが有力
→ 魏志倭人伝からの引用があり、編纂者が卑弥呼を、神功皇后に投影された可能性が考えらるが、考古学的史料(七支刀の銘文など)や他の文献史料と照合すると実質的には372年と見るのが有力

高句麗の南下政策に対抗
📌 366年〜4世紀末(第1次百済・新羅同盟)
百済:第13代近肖古王(346〜375年)が王権を強化(実質的な初代王?)
→ 📌 369年、雉壌城に侵入した高句麗軍を急襲
→ 📌 371年、 高句麗王・故国原王を戦死させる(歴史的勝利)
🇯🇵👉このころ、倭国に七支刀を献上したと推測
→ 📌 372年、百済は東晋に朝貢し「鎮東将軍・領楽浪太守」の冊封を受ける
→「晋—百済—倭」ラインで高句麗を挟撃しようとした外交戦略🤔
→ 📌 375年、 高句麗に攻め込まれ水谷城を奪われる (やや息切れ)
→ 📌 397年、第17代阿莘王が太子(腆支)を倭国へ人質にし、引き換えに倭国の軍事介入が行われたと見られる

🌟 摂政62年:新羅が朝貢してこなかったので、葛城襲津彦(武内宿禰の子)を派遣して新羅を征伐
📘『百済記』逸文
倭の沙至比跪(通説では襲津彦に比定)が出征するが新羅の策略(ハニートラップ)により、加羅を侵略してしまう→ 怒った皇后が木羅斤資を遣わして沙至比跪を攻めさせた

🔍 ひとこと:武内宿禰の子
▲ 波多八代宿禰(波多氏の祖)
▲ 許勢小柄宿禰(巨勢氏の祖)
▲ 蘇賀石河宿禰(蘇我氏の祖)
▲ 平群木菟宿禰(平群氏の祖)
・・・大鷦鷯尊(仁徳天皇)と木菟宿禰とは同日に生まれた
・・・応神の子の産殿には木菟(つく:ミミズク)が、武内宿禰の子の産屋には鷦鷯(さざき:ミソサザイ)がそれぞれ飛び込んだので、その鳥の名を交換した
▲ 木角宿禰(紀氏の祖)
▲ 葛城襲津彦(葛城氏の祖)

🔍 ひとこと:ちょっと気になる新羅との関係🫢

瓠公(ココウ)
新羅の3王統(朴・昔・金)の始祖の全てに関わる建国時の重臣
もとは倭人とされる
名前は、瓠を腰に下げて海を渡ってきたことに由来
金氏王統の始祖は、瓠公が持ち帰った金色の小箱に入っていた男の子
脱解(タルヘ)
新羅第4代王で、昔氏の始祖
船で新羅に渡来して王位に就いた人物
倭国の東北一千里にある多婆那国で誕生
多婆那国 = 丹波国、但馬国という説もある
神功皇后母方の祖先はアメノヒボコ(新羅の王子)
アメノヒボコは但馬国に根を下ろしたとされる
父方には、名前に丹波がちらほら登場
スサノオ本文では、直接出雲に降臨
一書第4(異伝)、新羅を経由して出雲に降臨

🌟 摂政69年:崩御

第15代 応神天皇(おうじん)

渡来人を積極的に用い、後世には八幡神(軍神)として信仰された
応神天皇以降の天皇から、徐々に史実性が高まってくる

在位期間270年~310年(享年110歳)
皇居不明(『日本書紀』)
軽島豊明宮(『古事記』奈良県橿原市)
難波大隅宮(行宮:大阪市東淀川区)
陵墓伝承地惠我藻伏崗陵(羽曳野市:誉田山古墳)
別称誉田別尊(ほむたわけ)
凡牟都和希王(ほむつわけ)
和風諡号誉田天皇
仲哀天皇
神功皇后
皇后✅仲姫命(なかつひめのみこと)
✅高城入姫命(たかきのいりひめのみこと)
✅宮主宅媛(みやぬしやかひめ)
✅弟姫(息長真若中比売:おきながまわかなかつひめ)

✅皇后:仲姫命(父:品陀真若王(ヤマトタケルの異母弟の子)・母:建稲種命(尾張国造)の娘)
→ 子:大鷦鷯尊(仁徳天皇)

✅妃:高城入姫命は、仲姫命の同母姉
→ 子:大山守皇子は、応神天皇の崩御後、王権を狙って反乱を起こすが敗北
→ 子:額田大中彦皇子は、倭の屯田をめぐり「淤宇宿禰(出雲臣の祖)」に訴えられ、証言により主張を退けられた皇子
・・・氷室を献上した逸話でも知られる

🔍 ひとこと:淤宇宿禰(おうのすくね:出雲臣の祖)
ヤマト王権の直轄地を巡る争いで、皇族に正論で立ち向かう
→ 淤宇宿禰:倭の屯田の管理者
→ 額田大中彦皇子:この地を支配しようとする
→ 菟道稚郎子(皇太子):直接は裁かず、「兄(大鷦鷯尊)に言いなさい」と中立対応
→ 大鷦鷯尊(仁徳天皇):判断を下すために証人を求める
吾子籠(あごこ):倭直の家系に属する証人で、朝鮮半島(韓国)に派遣中に呼び戻される
→ 証言
・・・垂仁天皇が、皇太子の景行天皇(大足彦尊)に命じ、倭の屯田の支配体制を整えるように指示
・・・その際に、「屯田は天皇のもの。皇子でも天皇でなければ支配できない」と定めた

🔍 ひとこと:倭直吾子籠(やまとのあたい あごこ)について
→ 応神条から雄略条にわたり登場
▲ 応神:倭屯田訴訟の証言者
▲ 仁徳:巨木を船にした名工
▲ 履中即位前:住吉仲皇子挙兵の協力者
▲ 雄略:部民編成功労者
→「倭直家当主」の 世襲名 ❓
→ 編集時に複数人物のエピソードを一本化した❓

✅妃:宮主宅媛は、日触使主(和珥臣の祖)の娘
→ 子:菟道稚郎子は、皇太子
・・・兄仁徳に皇位を譲ろうとして自害したという伝説
→ 子:八田皇女は、 仁徳天皇皇后
→ 子:雌鳥皇女は、隼別皇子(仁徳天皇の異母弟:母は桜井田部連島垂根の子)の妃
・・・仁徳に求婚されたが隼別皇子と結婚し、のちに仁徳に反逆したことにより夫婦とも殺害される

✅妃:弟姫(息長真若中比売)は、河派仲彦の娘
・・・応神天皇には、品陀真若王(ヤマトタケルの異母弟の子)の娘3人(仲姫命・高城入姫命・弟姫命)が嫁いでいるが、この弟姫とは別人
→ 子:稚野毛二派皇子
・・・今日の皇室は稚野毛二派皇子の男系子孫(第26代継体天皇の高祖父)
・・・稚野毛二派皇子の子:忍坂大中姫命は第19代允恭天皇の妃
・・・忍坂大中姫命の子:木梨軽皇子・安康天皇(20代)・雄略天皇(21代)

🔍 ひとこと:稚野毛二派皇子について
『古事記』では稚野毛二派皇子は倭建命の子孫筋

倭建命

息長田別王

杙俣長日子王

息長真若中比売 = 弟姫

稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)

📘『上宮記 逸文(釈日本紀)』の『記紀』にない「継体天皇の出自(系譜)」
→ 継体天皇は北陸出身で、もともとヤマト王権の直系ではない
→ 継体天皇のときに王朝交代があったという説もある
→ 王朝交代とまではいかなくても、なんらかの政変があったかも❓

凡牟都和希王(応神天皇)

若野毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)

大郎子(意富富等王)

乎非王

汗斯王(彦主人王)

乎富等大公王(26代継体天皇)

🔍 ひとこと:ちょっと気になる凡牟都和希王🫢
📘『上宮記 逸文(釈日本紀)』では凡牟都和希王(ほむわけのみこ)は応神天皇とされているが、
→ 応神天皇は誉田別尊(ほむわけのみこと)
→ 垂仁天皇の第一皇子は誉津別命(ほむわけのみこと)
→ 応神天皇は、後の継体天皇の正統性を補強するためとするために創作された可能性は❓
→ 神がかった神功皇后の子孫とすれば、より「正統性」が強まる

🌟 応神2年: 海を渡り百済・任那・新羅を服属

🌟 応神3年: 蝦夷に厩坂道を作らせる
→ 奈良県橿原市周辺の道路整備

🌟 応神3年:百済の辰斯王が朝貢を怠ったため日本側は紀角宿禰などを遣わせて譴責、百済の側が辰斯王を殺して謝罪
→ 紀角宿禰らは、阿花王を王にした

🌟 応神5年:諸国に命令して、海人及び山守を制定
→ 海上・山林を王権が直轄管理するために設置

🌟 応神7年:渡来系の高麗人・百済人・任那人・新羅人を使って「韓人池」を造らせた
→ 「唐古池=韓人池」は便宜的なもので、唐古池(奈良県磯城郡田原本町唐古)は、 1703年に新たに掘り直されたもの

🌟 応神8年:百済人が来朝
📘『百済記』逸文
応神8年:百済の阿花王が無礼 → 倭が報復し百済領を奪取 → 和解のため百済は王子(直支)を倭に人質として送る

🌟 応神9年:筑紫(九州)視察に派遣された武内宿禰を、その弟・甘美内宿禰が「筑紫と三韓を合わせて謀反を企んでいる」と讒言
天皇は武内宿禰誅殺を命じるが、真根子(壱岐直の祖)が身代わりとなって自刃
武内宿禰は南海を経て帰京
「探湯」に臨み、勝利した武内宿禰は名誉を回復
甘美内宿禰は隷属民として処分された
・・・探湯(くがたち):釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせ、正しい者は火傷せず、罪のある者は大火傷を負うという神明裁判

🌟 応神13年:日向の髪長媛(諸県牛諸井の娘)を呼び寄せるが、髪長媛の容貌の美しさに惹かれた大鷦鷯尊(仁徳天皇)に譲る

🌟 応神14年:百済王は真毛津(まけつ)という名前の縫衣工女を貢上し、これが来目衣縫の祖となった

🌟 応神14年:弓月君(秦氏の祖)が120県分の民を連れて帰化したいと願い出るが、新羅人に妨害される
天皇は葛城襲津彦を派遣、ところが襲津彦が三年間も帰国しなかった
→ 🌟応神16年:平群木菟と的戸田を派遣、弓月君を来朝させ葛城襲津彦を連れ戻す

🌟 応神15年:百済が阿直岐(あちき)を派遣して馬を献上

🌟 応神16年:百済から王仁(わに)が渡来「論語」「千字文」を伝える
百済の阿花王の死去、直支王を帰国させる

🔍 ひとこと:秦氏について
→ 5~7世紀のヤマト政権に絹織物・土木・鉱山などを伝えた最大級の規模と技術力をもつ渡来系大豪族
📘『新撰姓氏録』では、弓月君は始皇帝末裔とされているが
→「秦氏=朝鮮半島南東部(新羅~伽耶圏)を母体にした渡来集団」とみる説が現在いちばん説得力がある

🌟 応神20年:阿智使主・その子の都加使主(倭漢直の祖)が、十七県の人々を率いて帰化

🌟 応神22年:望郷の念にかられた兄媛(妃)を淡路の海人八十人をつけて吉備へ帰らせた
→ 吉備に行幸のおりに、兄媛の兄:御友別(みともわけ:吉備氏の祖)に、吉備国の一部を与えた

🌟 応神25年:直支王の死去
→ 幼年の王が即位、王の母と密通した木満致が専横したので、天皇が召喚した
📘『百済記』逸文
木満致は、木羅斤資(倭人)が新羅遠征時に娶った女性との間に生まれた
父の功で任那を治め、百済と日本を行き来し、日本の命で百済政務を執ったが、専横が過ぎて日本に召還された

🌟 応神28年:高麗の王が使者を遣わして朝貢、その表に「高麗王、教日本国也」とだけ書かれていたため、皇太子の菟道稚郎子はこれを読んで激怒し、使者を叱責して「無礼だ」とその表書きを破り捨てた
・・・相手国の君主への敬称がなく、「教」は「教示する、命じる」の意で、相手を臣下と見なす表現

🌟 応神31年:武庫水門で新羅人の過失により枯野船が炎上
→ 焼け残りの木で塩と琴を作る

🌟 応神37年: 阿知使主・都加使主を呉(中国南部)に遣わして、縫工女を求める
→ 呉王から兄媛・弟媛・呉織・穴織を授けられた
→ 41年に呉より筑紫に帰国
→ 宗像大神に兄媛を献上し(筑紫国にいる御使君の祖)
→ 残りの三人を連れて武庫に着くと、天皇はすでに崩御(三人の子孫は呉衣縫・蚊屋衣縫)

🌟 応神39年:百済の直支王も妹:新斉都媛と7人の婦女を派遣

🌟 応神40年:菟道稚郎子を立太子

🌟 応神41年:崩御

応神天皇の崩御後、大山守命(兄)が皇位を奪おうと兵を挙げたが、大鷦鷯尊(仁徳天皇)と皇太子に察知され、菟道川を渡る途中に計略により水死した
→ 遺体は考羅済(京都府京田辺市)で発見され、那羅山(奈良市法蓮町)に葬られた

菟道稚郎子と大鷦鷯尊(仁徳天皇)は互いに皇位を譲りあう
→ 皇位が空いたまま3年経ち、菟道稚郎の薨去(皇位を譲るための自殺)により大鷦鷯尊(仁徳天皇)が即位