第10代 崇神天皇(すじん)/ 御間城入彦五十瓊殖天皇

目次
  1. はじめに
  2. 基本情報
  3. 系譜
  4. 事績

はじめに

天皇の系譜や事績について、基本的に『日本書紀』に書かれている内容をもとにまとめています
考古学の発見や他の歴史資料とちがう点は、できるだけ注釈をつけて紹介

▲👤天皇の名前
● 諱(いみな):天皇が生きているときの本名(神聖なのでふだん呼ばない)
● 諡号(しごう): 亡くなったあと付けるおくり名
→ 漢風諡号 :「○○天皇」形式(漢字2字+天皇)
・・・日本書紀が完成した720年に漢風諡号は無い
・・・💡760年ごろ淡海三船(おうみのみふね:皇族・学者)がまとめて付けた
→ 和風諡号 : 例「神日本磐余彦天皇」のような長い和語名
・・・和風諡号が記録に確実に現れるのは持統天皇(703年没)以降
・・・💡それ以前の天皇は、和風諡号か本名(諱)かはっきりしないことがある

▲ 📚「異伝」について
本文:皇后は〇〇の娘とする。
一書第一:△△の娘とする。
一書第二:□□の娘とする。

→ このように複数の別バージョンが書き添えられている
→ 豪族・土地の神・伝承にも気を配った結果(根回しの記録)

▲📍:地名などの由来

▲ 📘『先代旧事本紀』
→ 正史ではなく、物部・忌部など祭祀氏族の視点が色濃い別立場から書かれた歴史書
👉 詳しくは 参照用ページ(史料のまとめ)/先代旧事本紀

基本情報

在位期間前97年~前30年(享年120歳)
皇居磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや:奈良県桜井市)
山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ:奈良県天理市:行燈山古墳)
和風諡号御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)
別称御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)
→ 初めて「国家としての統治」を行った天皇
開化天皇(第二皇子)
✅伊香色謎命(いかがしこめのみこと)
皇后✅御間城姫(みまきひめ)
✅遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)
✅尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)

系譜

✅ 母:伊香色謎命(いかがしこめのみこと)は、第8代孝元天皇の妃でもあった
→ 父:大綜麻杵(おおへそき)は、物部氏の遠祖
→ 兄:伊香色雄命(いかがしこおのみこと)は、「物部氏」の祖(ニギハヤヒ系の天孫氏族)
→ 子:彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこ:武内宿禰の祖父)
・・・最初に第8代孝元天皇の妃となり彦太忍信命を産む
・・・武内宿禰は5代の天皇(景行・成務・仲哀・応神・仁徳)に仕えた伝説の忠臣
→ 子:御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと:第10代崇神天皇)

✅ 皇后:御間城姫(みまきひめ)
→ 父:大彦命(おおひこのみこと)は、四道将軍(北陸)の一人
・・・大彦命の父:第8代孝元天皇(第一皇子)
・・・大彦命の母:欝色謎命(兄:欝色雄(うつしこおのみこと)は「穂積氏」の祖:ニギハヤヒ系の天孫氏族)
→ 子:活目入彦五十狹茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと:第11代垂仁天皇)
→ 子:彦五十狹茅命(ひこいさちのみこと)
→ 子:国方姫命(くにかたひめのみこと)
→ 子:千々衝倭姫命(ちちつくやまとひめのみこと)
→ 子:倭彦命(やまとひこのみこと)
→ 子:五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと)

8孝元天皇     
├ 大彦命(おおひこのみこと)
│ └ 御間城姫(みまきひめ)
└ 9開化天皇
└ 10崇神天皇(すじん)

🔍 ひとこと:大綜麻杵(おおへそき)と欝色雄命(うつしこおのみこと)
📘『先代旧事本紀』によると、第8代孝元天皇の時代
物部氏の祖の宇摩志麻治命(うましまじのみこと)の子孫である兄弟
→ ▲弟:大綜杵命(おおそきねのみこと)を「大禰(おおむらじ)」
→ ▲兄:欝色雄命(うつしこおのみこと)を「大臣(おおおみ)」に任命

🔍 ひとこと:ニギハヤヒ(饒速日命)
ニギハヤヒは、神武より先に大和に降りたもう一人の天孫(高天原から地上に降りた神)
→ 長髄彦の妹とニギハヤヒの子供:ウマシマジが、物部氏・穂積氏・采女氏などの祖とされる
→ 長髄彦(ながすねひこ)は、大和(奈良〜大阪北東部)を治めていた土着の豪族で、神武天皇の東征軍と戦った人物

✅ 妃:遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)は、紀伊国の荒河戸畔(あらかとべ)の娘
📚「異伝」大海宿禰の娘の八坂振天某邊とも
→ 子:豊城入彦命(とよきいりひこ)は、東国を治めさせるために派遣
・・・上毛野氏・下毛野氏(群馬・栃木あたり)の祖とされる
→ 子:豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)は、巫女的存在(卑弥呼の後継・台与説もある)
・・・天照大神を祀った最初の皇女(斎宮制度の起源
・・・のちにこの役割は倭姫命(垂仁天皇の娘)へ引き継がれる

🔍 ひとこと:豊城入彦命と東国
・・・豊城入彦命の子:八綱田(やつなた)は垂仁天皇の条の「狭穂彦王の反乱」の際に狭穂彦王を自殺に追こんだ功により「倭日向武日向彦八綱田」の号が授けられた
・・・豊城入彦命の孫:彦狭島王(ひこさしまおう)は初代上毛野国造とされる
・・・彦狭島王の子:御諸別王(みもろわけのおう)は景行天皇に時代に東国を治める

✅妃:尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)
→ 子:八坂入彦命(やさかいりびめのみこと)
・・・八坂入彦命の子:八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)が第12代景行天皇の皇后(後)となる
→ 子:渟名城入姫命(ぬなきいりびめのみこと)
・・・倭大国魂神を祀る神主に任命されるが、髪が抜け祀れなかった
→ 子:十市瓊入姫命(とおちにいりひめのみこと)

事績

🌟 即位元年(太歳甲申年1月13日):即位

🌟 即位元年2月:御間城姫(みまきひめ)を皇后とした

🌟 即位3年9月:都を磯城の率川宮(みずかきのみや:奈良県桜井市金屋あたり)に定める

🌟 即位5年:疫病が大流行、人口の半分が失われる

神々の祀り方を改める
🌟 即位6年:天照大神と倭大国魂神を宮中から、別の場所に遷座
→ ▲天照大神は、豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)に託し、倭の笠縫邑(かさぬいむら)に祀り、磯堅城に神籬(ひもろき)を立てた
→ ▲倭大国魂神は、渟名城入姫命(ぬなきいりびめのみこと)に託されたが、髪が抜けて祀ることができなかった
🌟 即位7年2月:天皇の占いと夢
→ 占い:神淺茅原で八十万の神をあつめて占うと、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り「私(大物主神)を敬えば平穏になる」とお告げるが効果がない
→ 再び祈ると大物主神が夢に現れ「私の子・大田田根子に祀らせよ」と告げた
🌟 即位7年8月:三人が同じ「夢」を天皇に報告
→ ▲倭迹速神淺茅原目妙姫(やまととはやかんあさじはらまくわしひめ:倭迹迹日百襲姫命と同一視)
→ ▲大水口宿禰(おおみくちのすくね:穗積臣の遠祖)
→ ▲伊勢の麻績君(おみのきみ)
→夢の内容:尊い方が「大田田根子(おおたたねこ)を大物主大神の神主に、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神の神主」と告げた
→ 天皇は、大田田根子を探させて、茅渟縣(和泉国)の陶邑で大田田根子を見つける
🌟 即位7年11月:伊香色雄(いかがしこお:物部連の祖・崇神天皇の叔父)を指名して、物部の八十平瓮(やそひらか:神事に使われる多数の平皿)を祭神の供え物とした
→▲大田田根子を大物主大神の神主に・市磯長尾市を倭大国魂神の神主に任命
→ 八十万神も合わせて祀り、天社(天津神の社)・国社(国津神の社)・神地(神の土地)・神戸(神に奉仕する人々)を整備
疫病がおさまり、国内は平穏に

🔍 ひとこと:神々の祀り方を改めた要点
🔹二大神の宮中からの遷座(神威が強すぎて共住できず)
→▲ 天照大神 :豊鍬入姫命に託して笠縫邑へ(斎宮制度の起源)
→▲ 天倭大国魂神 :大和神社で倭氏(大倭直)が祭祀を担う
🔹 神託により神主を専任任命
→▲ 天大物主神 :大田田根子(三輪氏の祖)
→▲ 天倭大国魂神 : 市磯長尾市(倭直(倭氏)の祖)
🔹 祭祀制度を整備
→ 物部氏は武器の管理だけでなく、祭器づくりにも関与

🔍 ひとこと:大田田根子(おおたたねこ)は「三輪氏」の祖
父:大物主神(『古事記』で大物主神の5世孫)
母:陶津耳の娘の活玉依媛(いくたまよりひめ)
・・・📚「異伝」奇日方天日方武茅渟祇(くしひかたあまつひかたたけちぬつみ:=鴨王)の娘

🌟 即位8年4月:高橋邑(奈良県天理市あたり)の活日(いくひ)を大神神社(大物主神の神社)掌酒(さかびと:神酒を醸造する役目) に任命
🌟 即位8年12月:天皇はあらためて大田田根子に大神(大物主神)を祀らせ、神酒を奉納
・・・日本酒造りの物語は、三輪に始まる😊

🌟 即位9年:夢のお告げに従い、武具を奉って守護神として整備
→ ▲東(大和国東部:宇陀市):墨坂神(すみさかのか:赤の武具)
→ ▲西(大和国西部:香芝市):大坂神(おおさかのかみ:黒の武具)

🌟 即位10年7月:天皇の詔
「災いはおさまったけど、遠くの国はまだ従っていない。四方に家来を派遣して教えを広めよう」

🌟 即位10年9月:四道将軍を派遣
→ ▲北陸道:大彦命(おおびこのみこと:8孝元天皇の子・9開化天皇の兄)
→ ▲東海道:武渟川別命(たけぬなかわわけ:『古事記』では大彦命の子)
→ ▲西道(山陽方面):吉備津彦命(きびつひこのみこと:7孝霊天皇の子・8孝元天皇の弟)
→ ▲丹波(山陰):丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと:9開化天皇の孫・彦坐王の子)

🌟 即位10年9月:大彦命と倭迹々日百襲姫命が童女の歌から謀反を察知
→ 武埴安彦(たけはにやすひこ:8孝元天皇の子)・吾田媛の夫婦が反乱を起こすも、五十狭芹彦命(吉備津彦命)・大彦命・彦国葺(ひこくにふく:和珥臣の祖)らの活躍で討伐
・・・📍那羅山(ならやま):軍が草木を踏みならして進軍した
・・・📍泉川(いずみがわ:木津川):河を挟んで挑み合った場所の挑河(いどみがわ)がなまった
・・・📍羽振苑(はふりその:京都府相楽郡精華町): 多くの死体があふれ(羽振れ)た
・・・📍伽和羅(かわら):敗走兵が甲を脱いで逃げた場所
・・・📍樟葉(くすは:大阪府枚方市):敗走兵が屎を漏らした屎褌(くそばかま)がなまった
・・・📍我吾(あぎ):捕まった兵士が命乞いして頭を地につけて謝った場所

倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと:=百襲姫)の箸墓伝説
百襲姫命は、命を絶って神と結ばれ、神と人が力を合わせ大坂山から石を運んで築いた箸墓古墳に眠っている(『古事記』には記載なし)
→ 百襲姫は、大物主神(三輪山の神さま)の妻となった
→ 大物主神は、夜しか姿を見せず、昼に姿を見せない
→ 百襲姫は、姿を見たいと願い出たところ、くし箱の中に小蛇の姿で現れる
→ 彼女は驚いて悲鳴をあげてしまう
→ 大物主神は、「恥ずかしい」と大空を踏んで、御諸山(みもろやま:三輪山)に登っていった
→ 百襲姫は、ドスンと座り込み、箸(はし)で自分の陰部(ホト)を刺して亡くなる
→ 百襲姫は、大市(おおち:奈良県桜井市)に葬られ、箸墓(はしのみはか)と呼ばれた
→ 箸墓は、昼は人が作り、夜は神が作った
→ 大坂山(二上山の北側)から墓まで石を運んで築いた

🎵 大坂に 継ぎ登れる 石群を
手遞傳に越さば 越しかてむかも

大坂山の、下から上まで続く石は重くて大変だけど
手渡しで渡していけば、持って行けるだろう

🔍 ひとこと: 倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)
→ 父:第7代孝霊天皇
→ 母:倭国香媛(やまとくにかひめ:別名は絙某姉(はえいろね))
・・・出自の記載がないが、『古事記』では安寧天皇の曾孫で淡路島出身の蠅伊呂泥
・・・妹:絙某弟(『古事記』では蠅伊呂杼)も第7代孝霊天皇の側室
→ 弟:彦五十狭芹彦命は(ひこいさせりひこのみこと:別名は吉備津彦命)
→ 巫女的存在(卑弥呼説もある)
→ 箸墓古墳(古墳時代の始まりとされる最古の前方後円墳)の被葬者とされている人物

🌟 即位10年10月:遠くの国々はまだ乱れているので、四道将軍が再び出発
🌟 即位11年4月:四道将軍が帰還し、各地の夷賊(周辺の異族)を平定したと天皇へ奏上

🌟 即位12年3月:全国民の調査(戸籍のようなもの)を行い、年齢を把握して税や労役を公平に課すことを決定
🌟 即位12年9月:初めて税と労役を課す
→ 男性:弭調(ゆはずのみつき:狩猟生産物)
→ 女性:手末調(たなすえのみつき:絹や布などの手作業生産物)
天下は平和に、人々は天皇を誉めたたえて「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称した

🌟 即位17年7月:天皇の詔
「舟は国にとって大切なものだ。海辺の民が献上品を歩いて運んで苦労している。だから各地に舟を造らせよ」
🌟 即位17年10月:はじめて船舶を作った
・・・船自体は神武以前からあったけど、海上の物流インフラを整備したってことかな🤔

🌟 即位48年1月:皇位継承を夢占いで決める
→ ▲兄・豊城命の夢:御諸山に登り、東を向いて武器を振るった
・・・東国を治める(上毛野・下毛野氏の始祖)
→ ▲弟・活目尊(後の垂仁天皇)の夢:御諸山の山頂で縄を四方に張り、粟を食べる雀を追い払った
・・・四方すべてに気を配っていた活目尊は、皇太子
🌟 即位48年4月:活目尊(いくめのみこと)を立太子

🌟 即位60年7月:天皇が出雲大社に納められている武日照命(タケヒナテル:武夷鳥とも天夷鳥ともいう)が天から持って来た神宝を献上させ、出雲氏に内紛が起きた
→ 兄の不在中に、弟:飯入根(いいいりね)が弟の甘美韓日狭(うましからひさ)と息子の鸕濡渟(うかずくぬ)につけて、神宝を貢上
→ 兄・出雲振根は「なぜ勝手に渡したのか」と怒り、飯入根を謀殺
→ 事件を報告された朝廷は、吉備津彦と武渟河別を派遣して出雲振根を討つ
→ 出雲臣たちは大神を祀ることを中断した
→ 丹波の氷香戸辺(ひかとべ)の小児が「立派な神聖な鏡が水に沈んでいる」と神託の歌を詠んだことを皇太子に報告
→ 皇太子が奏上し、天皇は神宝(鏡)を祀る命じた
・・・地方神(出雲大神)を中央祭祀に取り込む過程🤔

🌟 即位62年7月:天皇の詔
「農業は国の基本だ。狭山(大阪狭山市)田は水が足りない。池や溝を掘って助けよ」
🌟 即位62年10月:依網池(よさみのいけ)を造った
🌟 即位62年11月:苅坂池(かりさかのいけ)・反折池(さかおりのいけ)を造った
📚「異伝」:天皇は桑間宮(くわまのみや)にこれら3っの池を造った

🌟 即位65年7月:任那国(みまなのくに)が蘇那曷叱知(そなかしち)を派遣して朝貢
任那は筑紫から二千里で、北の方の海を隔てて鶏林(しらき:新羅)の西南にある
・・・任那は、朝鮮半島南部(加耶諸国の一部)の地名
・・・任那の初めての朝貢

🔍 ひとこと:蘇那曷叱知(そなかしち)
第11代垂仁天皇の時代、赤絹100匹を賜ったが、新羅に奪われてしまう
→ この事件が、「任那と新羅の争いの始まり」として語られる
📚「異伝」では、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと:于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき))とも記される
→ 意富加羅国(大伽耶)の王子で、地名「敦賀(つるが)」の由来の人物
→ この王子は、垂仁天皇より崇神天皇の名(御間城:ミマキ)を国の名にして、『ミマナ(任那)』と名乗るように命じられた

🌟 即位68年12月:崩御(120歳)

🕓 更新日:2025年7月7日

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書き足し、修正、アップデートを重ねています