第13代 成務天皇(せいむ)/ 稚足彦天皇

目次
  1. はじめに
  2. 基本情報
  3. 系譜
  4. 事績

はじめに

天皇の系譜や事績について、基本的に『日本書紀』に書かれている内容をもとにまとめています
考古学の発見や他の歴史資料とちがう点は、できるだけ注釈をつけて紹介

▲👤天皇の名前
● 諱(いみな):天皇が生きているときの本名(神聖なのでふだん呼ばない)
● 諡号(しごう): 亡くなったあと付けるおくり名
→ 漢風諡号 :「○○天皇」形式(漢字2字+天皇)
・・・日本書紀が完成した720年に漢風諡号は無い
・・・💡760年ごろ淡海三船(おうみのみふね:皇族・学者)がまとめて付けた
→ 和風諡号 : 例「神日本磐余彦天皇」のような長い和語名
・・・和風諡号が記録に確実に現れるのは持統天皇(703年没)以降
・・・💡それ以前の天皇は、和風諡号か本名(諱)かはっきりしないことがある

▲ 📘『先代旧事本紀』
→ 正史ではなく、物部・忌部など祭祀氏族の視点が色濃い別立場から書かれた歴史書
👉 詳しくは 参照用ページ(史料のまとめ)/先代旧事本紀

基本情報

在位期間131年~190年(享年107歳)
皇居高穴穂宮(たかあなほのみや:滋賀県大津市)
狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ:奈良市:佐紀石塚山古墳)
和風諡号稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと)
景行天皇(第四皇子)
✅ 八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)
系譜(特記事項)后妃・皇子女の記載は無い

系譜

✅ 母:八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)は、景行天皇が美濃で求婚した弟媛(おとひめ)の姉で、弟媛の推薦で妃となり、のちに皇后に昇格した
→ 八坂入媛命の父:八坂入彦命(父:崇神天皇・母:尾張大海媛)・八坂入媛命の母:未詳
→ 子:稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと:第13代成務天皇)
→ 子:五百城入彦皇子(いほきいりびこのみこ)
・・・『古事記』では五百城入彦の子:品陀真若王(ほんだのまわかのみこ)
・・・品陀真若王の娘(仲姫命)は第15代応神天皇の皇后
・・・品陀真若王の娘(高城入姫命)は第15代応神天皇の妃
・・・品陀真若王の娘(弟姫命)は第15代応神天皇の妃
→ 子:忍之別皇子(おしのわけのみこ)
→ 子:稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)
→ 子:大酢別皇子(おおすわけのみこ)
→ 子:渟熨斗皇女(ぬのしのひめみこ)
→ 子:渟名城皇女(ぬなきのひめみこ)
→ 子:五百城入姫皇女(いほきいりびめのひめみこ)
→ 子:麛依姫皇女(かごよりひめのひめみこ)
→ 子:五十狹城入彦皇子(いさきいりびこのみこ:📘『先代旧事本紀』では「三河長谷部直」の祖)
→ 子:吉備兄彦皇子(きびのえひこのみこ)
→ 子:高城入姫皇女(たかきいりびめのひめみこ)
→ 子:弟姫皇女(おとひめのひめみこ)

事績

🌟 即位元年(太歲辛未年1月5日):即位

🌟 即位3年1月:武内宿禰(たけのうちのすくね)を大臣(おおおみ)とした。
→ 天皇と武内宿禰は同じ日に生まれたので、特別に寵愛した

🌟 即位4年2月:天皇の詔
「今の人びとは落ち着きがなく、心も乱れている。その理由は、地方にちゃんとしたリーダーがいないからだ。だから、これからは国や村ごとにしっかりとした人を選び、その土地を治めさせよう」

🌟 即位5年9月:国・郡には「造長(みやつこおさ)」を、県・邑には「稲置(いなぎ)」という役職を置いた
→ その印として盾矛(たてほこ)を授けた
→ 山や川を境にして国県(くにあがた)を分け、阡陌(せんぱく:東西の道と南北の道をさし、また道が交差する場所の意味)に沿って邑(むら)を整理
地形の呼び方も定めた
→ ▲東西を日縦(ひのたたし)・南北を日横(ひのよこし)
→ ▲山の陽(みなみ)を影面(かげとも)・山の陰(きた)を背面(そとも)
→ 人々は安心して暮らせるようになり、世の中も安定しました

🔍 ひとこと:国造・県主・稲置設置
5世紀後半~6世紀:倭の五王外交や鉄器の普及とともに国造・県主の官称が広まったと考えられることから、国造や稲置を成務天皇の時代に一気に置いたというのは、あとから付けの物語だと考えられる

🔍 ひとこと:地形の呼び方
▲東西の道を「日縦(ひのたたし)」・南北の道を「日横(ひのよこし)」
→ これは、太陽が東から西へ動く様子を「縦」に見立てた
▲ 山の南側(太陽が当たる面)を「影面(かげとも)」・北側(日が当たりにくい面)を「背面(そとも)」
→ これは、中国の陰陽思想(南=陽/北=陰)をもとにした考え方
こうした呼び方は、のちの「条里制」や「表/裏」の地名の感覚(例:表参道・裏磐梯など)につながっていると考えられる

🌟 即位48年3月:甥の足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと:日本武尊(やまとたける)の第二子)を立太子
・・・仲哀天皇の段での記述(成務天皇48年、足仲彦尊は31歳のときに立太子)とあるが、父・日本武尊は成務即位以前に30歳で没しているため、計算上「父の死後に生まれた子」になってしまい、年代が完全に合いません😆

🌟 即位60年6月:崩御(107歳)

🕓 更新日:2025年7月18日

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